今から50年前の1963年の秋、アメリカ、バージニア州のある病院で男の子が生まれました。しかし早産で生まれたその赤ちゃんは未熟児で消化器官の異常が疑われました。そこで病院は診断を確定し適切な治療をうけるために男児をジョンズ・ホプキンス大学の付属病院に転院させることにしました。ジョンズ・ホプキンス大学の医学部はアメリカでも最も古い歴史を誇る名門病院で、難しい問題を抱えた新生児の治療を一手に引き受けていました。
診察の結果、赤ちゃんの異常は腸閉塞で手術が必要だと診断。しかし、同時に新生児はダウン症の疑いがあることも確認されました。
腸閉塞の手術自体は難しいものではなく助かる見込みは十分ありました。
しかし、両親は手術を拒否。同意のない手術は違法行為となるため病院側は説得を試みました。
ダウン症は障害があるとはいってもその程度には個人差があることや障害児を育てていくための環境や制度などを丁寧に説明。粘り強く説得を続けましたが、両親の考えは変わりませんでした。結局手術は行われず、新生児は生後11日目に病院で餓死してしまいました。
生まれてきた子供に障害があったとしたら、治療可能な手術をせずに死なせることは許されるのでしょうか。
また、夫婦が治療を拒否した背景には一体何があったのでしょうか。
この夫婦には既に2人の子供がいて、死亡した男児は第三子でした。障害児を育てることは手がかかるので、上の子供たちの子育てがおろそかになってしまうというのが手術拒否の理由だったと母親が説明しています。そんな理由で手術を拒否するこの母親を理解できない方も多いでしょう。
しかしこの母親は看護師で、ダウン症に関する知識もあり、障害児を育てることの大変さを身にしみて理解していたそうです。せっかく自分のお腹で大事に育ててきたのですから、この手術拒否という決断も簡単に下せたわけではなかったのではないでしょうか。
また、一方で病院側が治療をすることができなかったのか。アメリカでは必要な手術を新生児の親が拒否した場合、医療陣には裁判所に訴え、親の養育後見人資格を停止させ、手術することができるという手段があります。(幼児虐待などではこういった手段をとることもあるようです。)
今回のケースの場合においても医師たちのあいだには裁判所命令をとってでも手術をするべきだという意見もなかったわけではありません、病院が裁判所に連絡を取り必要な手続きをすれば新生児の命を救うことはできる。しかし、その新生児を育てるのは医師ではなく親です。命を救ってもその後のことまで病院は責任をもつことはできません。
説得は試みても手術の強行にまでは踏み切れず、医師や病院の責任者たちは割り切れない想いを抱きながらも裁判所に連絡をとることはありませんでした。
悲しいことに生まれて間もない尊い命がなくなったこのケース。しかしそこにはさまざまな立場と考えがあったことは事実。みなさんはどう感じますか?50年も前の出来事ですが、それぞれの立場と想いを理解し生命倫理とはなにかを考えてみてはいかがでしょうか。